ナショナリズムについて思うこと

日本を好きでなにが悪いという意見がある。

 

 

日本という国がある以上、そこに住まう人々がナショナルな枠組みに愛着を抱くのは当然であるし、そういった感情がなければ経済的再分配も行われないだろう。

 

 

人類普遍の権利は皮肉にも国家という枠組みが補償することになっている。

 

 

 

しかし、国を愛するという行為はどうにも問題があるらしい。

 

愛国的な歌詞をリリースして、炎上した歌手がいた。

 

このようなことが起こるのは何故だろうか。単に国家を否定した人々によるものなのか。

 

 

それは国家や国民、ナショナリズムといった概念を多くの人が曖昧なまま使用していることに問題があると指摘する。

 

 

日本は民族的文化的画一性が強い。

フランス人といわれて想像する人々が多様であるのに対し、日本人といわれれば大体同じような姿を想像するかもしれない。

 

 

 

しかし、国民とはエスニックな枠組みだけを指すわけではない。大きく分けてもう一つの枠組みがある。

 

それは市民的な枠組みである。

 

日本でいえば、日本国憲法がある。市民的な枠組みはエスニックな枠組みと比べて、より普遍的な善やヒューマニズムを重視する。

 

日本国といえば言ったときに、日本国憲法を思い浮かべる人がどれくらいいるだろうか。

現行政権はこの憲法をみっともないものだとしている。

 

それもあってか日本ではエスニックな枠組みばかりが重視されている。

 

 

 

外国では国を愛することは当然といったときに、その中身を明らかにしようといったことはあまり重視されない。

 

 

この偏りにナショナリズムを巡る認識の齟齬があるのかもしれない。

 もちろん、エスニックな枠組みが悪で市民的な枠組みだけが正義といっているわけではない。

 

国家の持つこの二つの側面は緊張関係にあり、単なるナルシシズムではなく主権国家体制の中で国家としての責任を負うためには必要な緊張関係である。

 

 

リベラルの藁人形を叩き、この問題から目をそらすナショナリストがいるとすれば、それは卑怯だとしか言いようがない。